昭和44年12月8日 朝の御理解 ★
御理解第75節
「人を殺すと言うが、心出殺すのが重い罪じゃ・・・。」
心で人を殺す事が出来たり、傷つけたりする、ですから、心で人を生かすことも助ける事も、また、傷ついておることを、の心を癒していることの出来ると言うか、ことが分かりますね。
ですから、まさに、神が見ておると仰るんですね、心で殺すのは、神が見ておる、形の上でなすことならば、お上があって、それぞれにお仕置きを仰ぐのだけれど、神が見ておる、いわゆる、天地の法則に戻ることを教えておられるわけですね、ですから、神様のお仕置きを受けれなければならない、それを天罰といいたような言葉で申しますね。
それぞれに、そこん所が分かり、そこん所を信じられるところから、私は信心がいよいよ本当な事になってくる、また、本当な事を分からせて頂く楽しさ、喜ばしさ、ね。
私は信心をさせて頂くということ、これはお道の信心をさせて頂くということもです、その、本当な事を分からせていただくことなのですから、いわゆる、真の信心とこう教えられる、ね、真のことを教えて下さるのですから、その真のことが分かる楽しみ、ね、本当な事が分かる喜ばしさ、ね、そこがなかならんと、私信心が非常に、なんちう、特別なきつい思いをしなければいけません、信心ちゃ難しいな訳です、けど、難しかっても、いや、難しければ難しいほど本当なことが分かったり、ね、その分かる事がいよいよ嬉く、また楽しくなってくるとです、いわゆる、難しいものでなくなってくる、いわゆる、信心は楽しいもんだと言う事になってくる。難しい事じゃない、そこん所に焦点を置かないから難しい。ね。
非常に今日ね、信心を教えていただいておっても、そういう人が少ないですね、本当なことが分からせてもらう、分かる事の、との楽しさとか、喜ばしさというふうに、ね、信心は、結局有り難くならせて頂く稽古だと言われておりますが、ね、その本当なことを楽しく、喜ばしく、( ? )頂ける、その事を自分の血肉にしていこうとする精進、いわゆる、それを行ずる所の有り難さと言うことになります、ね、それは、( ? )本当なことを分かって、本当な事を行じられる、ね、もう本当なことを行じられるから神様が有り難いものをだされるんですよ、自分が有り難(ありがとう)うなりたいと思うただけじゃ有り難くなれんのです、結局神様に許される、いわば、心で人を殺すのは、ね、重い罪じゃと申しよるし、神が見ておるとも仰るがです、ですから、それと反対な事、その反対な事になってくる時に、神が見ておるぞということでありますから、それに対する、いうならば、神様の喜びがこちらへ伝わってくるはずであり、ね、殺すのではない、反対に人の心を生かす、その傷を癒す働きが出来るところに、私は重い罪じゃ、なくてからね、有り難い、それには御ほうびといったようなものがね、いわゆる、人間形の上でも自分が( ? )致しますと、( ? )とか、書状されるでしょう、同じ事です、ね、その、人の心を生かしたり、ね、癒したり、心にするのですから、神が見ておるぞですよ、ですから、神様がお喜びくださり、または、神様がそれに引当に下さる、それがお徳だと私は思う。ね、片一歩では重い罪とかろうていかなきゃならん、片一歩はそれが有り難いお徳になっていただけてくるということ。ね。
私は、もう本当にあの、特にそれを思うんですね、合楽の皆さん御信心を頂いて折られる方達は本当な事がわかると言う事はね、はぁー今日も有り難いことが分からせて頂いたという所にですね、お参りさせて頂かなければおられないものが生まれてくるですから、難しい事じゃないのです、これを頼まんならん、これを願わんならんからお参りをしておるならやはり信心も難しいなってくるのです。あくまでも本当のことも分かる楽しさ、喜ばしを身につけて、しかも、その身に付けていくと言う事は、それを行ずる事によって身に、身に付いてくる、その事が神の喜びになるのですから、私共に有り難いなと言う心が許されるのです。行ずるだから有り難さということになりましょうね、本当な事を行ずる事の有り難さ。
どうでしょうか、ね、合楽の方達はよくみえます、御理解を頂く事が本当に有り難いと、その、有り難いちいうて、ほんなこと有り難いとかどうか分からん、本当に有り難いというならその前に、いわゆる、もう本当のこつを分かる楽しさ、喜ばしさと言うものが実感で切らなければ有り難いものには繋がらない、( ? )、ね、例えば御理解を頂きながら、それはそうかん知れんばってんが、そんな訳には行かんちいうてから、有り難い( ? )はねつけようともしないという頂き方がある、ね。
今日も、トイレ掃除しよる人達の御祈念の後に頂いたら御理解なんかいえばね、もう私はそれはいただい、もう度々のことですけれども、もう本当な事を分からせて頂く、その、喜びと言うものは、(?)楽しさというものを本当にありがたいと思うのです。元気な心で信心せよこう、というのはね、さぁー今日もちった寒か、今日は( ? )、とても今日のようなしるしい日にと言うな時に、どうでもと言うて、まあ飛び出してくるこう、それは、やはり元気な心でしょうね、けれども、信心で言う元気な心というのはね、今日の御理解から頂くと、本当な事が分かる、はぁーそうやろう、それが本当やろうとこう、( ? )分かる、ね、それは本当と分かったらね、それをです、ね、完全と行ずる事、それが元気な心だと仰る。ね、御理解に( ? )と言うことを頂いたことなん、ね、いわゆる、いうなりに徹しらるは、言うなきなりであり、これが本当だと分かったことを行事ないのは、もう、その人は元気な心がない証拠だということになるのです、ね、行に徹しざるは、言う無きなりである、信心によって、信心させて頂いて、御教えを頂いて、はぁーそれが本当、それが本当であろうと、今までの考え違いがある、悔やまれる、今までの生き方が間違っておったと気付かせてもらう、そこに、詫びさせてもらい、そこから、本当な事を分からせてもらう、有り難さ、喜ばしと言うものが行ずる事によって、信心の本当の有り難さに触れていく事が出来る。
もし本当な事が分かっても、それを行じようとしないならば、それは、行を徹しざるを言う無きなりである、とっ言ったような御理解を頂いたんですけどね、本当にそうなとこう思う、お互い、なかなか実際、けれどもそう心がけておりましてもですね、出来ないのです、出来ないけれども、心がけとらんならなお出来んのです。
今日は皆さんにね、人を心で殺すということが重い罪であるということ、しかもそれは神が見ておるぞと教えておられます事をです、それを本当だとわからせてもらう、ですから、私共させて頂く者はそれと反対の行動というか、反対の生き方と言うか、その本当の生き方が、ね、なされる事が信心だという事が分かるでしょう、ね、この75節の生き方、いわゆる、75節の御理解を頂くとです、この御理解の反対の生き方をする事が信心だということになります、その反対の生き方というのは、なら今度は反対にね、心で助ける、心で傷ついておる人を癒してあげる、そういう働きをする人がです、神様の喜びを頂く事が出来、お徳を受けていく事が出来るということが、この75節から分かる訳ですね、本当な事が分かる。
いわゆる、ここでお取次ぎをさせて頂いてから、よく聞く言葉の中にですね、先生、心で殺される事が一番辛(つろ)うございますと言ったような事ですね、心で殺されるという時は一番辛か、もう一瞬、あっそうと言うてもろうて、また、叩かれる治るもんなら本当に叩いてもらったほうがよっぽどいい、心でこます、ね、特に、姑と嫁との間の中にある、それが( ? )というかね、まあ、あるんですね。口では言わんの、内の嫁がこういうてもにらみつけとる、心でにらみつけとる、それが本当に道の( ? )そんな限りと浅ましい人じゃあると思うて、浅ましいところばっかりを見よる、ね、だから本当にそうやって、その気になって見るとですね、本当に人間の浅ましいものは持たんものなかじゃから、本当にこのひとばかりはって、それこそ、言われるようなものを実際にこれにもっとるが、それを自分で見覚えがあるでしょうが、私共のものがと思うことがあるでしょうが、だから、そこん所を言われたら、やっぱり、ほんと内のお嫁子ばっかりはち言われたっちゃ思われたっちゃしようがなかね、ね、そういう時をです、そういうところを私共は心で癒してある、心で生かしていく助けていく、それを75節ですね、なら76節には「人間は人を助けることが出来るのは有り難いことではないか」と教えて折られます、ね、またはそれでも人の難儀を助けるのが有り難いと心得て信心せよと仰る。ね、信心の、いわば、楽しさ、有り難さというものがここに至って感じられる訳です、ね。
心で殺す事が出来るが、だから心ではですね、勿論、( ? )けれども、今日の御理解からいただい、お話を申しております事から頂きますと、人間は人を助ける事が出来るということは確かにそうだなと、ほかのものでは心に助ける事なんかは絶対に出来ません、ね、それはね、あの、動物でも形の上においてから助ける事はやっぱしますよね、例えば自分の子供おった、例えばニワトリでもこうやってから自分でかばう( ? )がある、あれは子供を助けとる、なら形の上においてはできますけれども、なら心でかぼうたり、助けたりする事は出来ません、これは人間だけに許されておる、私は特権と言うんですか、ね、人間だけに与えられておる有り難い差だとこう思うんです。だから、その事を、ね、人間でなかなりゃ出来ないことですから、そこん所を、いわゆる、気付かせて頂いて、心で殺す事ではなくて、いわゆる、人を助けるのだと、人を心で助けることが出来ることは有り難いことじゃないかとふうに76節の( ? )頂いたら、ね、またそれを有り難いと心得て、私共日にち信心させて頂くという所で、信心の有り難さ、楽しさ、喜ばしさといったようなものが分かるんです。
昨日、田主丸の石井信司さんが夜の御祈念に参ってきた、先生本当に、気の毒な人があります、私の弟友人のお母さんがまだ若いのですけれども、いうなら、死刑の宣告を受けたような状態の病気にかかっておられる、私、それを聞かせて頂いて、何とか信心によって助ける手はなかろうかと、それを聞いて思わせて頂いておりましたら、そこの娘さんがある所へお嫁へ行って折られる、そこの近所にやはり教会が、それで、信心と言う信者というほどじゃないばってん、時たまそこに、その姉さんが参られるというようなことを聞いて、ね、自分はね、信司さんが参りよる所に連れて行ってもらえんだろうかと言うて、その、弟の友達、ならある人が言われる、もう連れて行って、お導きさせて頂いていいどころじゃない、だから、( ? )必ず合楽に( ? )ことは、やはり縁があって、ある教会にご縁を頂いて折られるならそこでもいいって、でそれは、信司さんそこん所を例えば、必ず合楽の信者にならんならんちいうことはないんだから、それこそ、一生懸命陰ながら助かれる事を願いにお取次ぎを頂いて願いなさい、その為にはあんたが信心させて頂きなさい、というてお話をした事です。そしたらその時に ★ 「博愛」と言うことを頂きます、ね、博愛( ? )でしょう、あの博愛。このへんの所にいろんな条件があっては迫害にならないようですね、ね、私は導くとは、私が祈ってあげるとかと言ったようものである、ね、ただ、( ? )かわいそうなだなというその神心がです、祈らずにはおられない、願わずにはおられない、その為に私が修行でもさせて頂く事を有り難いというような生き方とは、信心の、私は博愛と言う風に教えていただくんだと思うのです、ね。それが出来るのは人間でしょうが、いくら祈ってやったちゃ、この人に、ならそれを有り難いとも思わっしゃらんけん祈っちゃあげんという心がけでは博愛になりませんよね、またそういうような人が祈ったってです、私が祈ってあげておる、頼んであげておると言ったようなことでは、ね、合楽の信者に導かんならんけん、というようなもんじゃね、そんな事はもう中に入れてはならない、どうであってもいい、問題は助かりさえすればいんだ、それも、なら自分には、いうならば、そういう弟を通して、知っておる人であっても、そこん所を祈れる、そういう心が博愛。人間は助けることが出来るということは有り難いということではないか、また、それを有り難いと心得てしんじんせよと。そこでみなさん、今日、まあいわゆる、( ? )聞いて頂いてです、私共の信心が、ね、本当な事を分からせて頂く楽しさとか喜ばしさに燃えておるかどうかをいっちょ確かめなければいけませんよ、合楽にこうやってお参りをさせて頂いておるが、今日もまた今まで知らなかった新知識が得られたんだと、今日もまた、本当な事が分からせ頂いた、これだから合楽にお参りしなければおられないと、いう所にですね、私は皆さんの信心の焦点をおかれておるだろうか、そして、それを持って帰って行ずる有り難さと言うものを頂く信心、今日、そこん所をです、人を殺すと言う事は重い罪だと教えておられますが、そんならばそれと反対のことをする事が信心だと、ね、心で人を助けたり、傷ついておる人を癒したり、心で出来る事なんだ、ね、それが、本当な事だとわからせて頂いたら、その本当なことをもって帰って、早速、自分の周囲を見回して、心で助けるあげてやらなければならない人、まず、第一にです、自分の家族、まず、嫁子のこと、まず姑親のこと、ね、例えていうと、ね、だからこそ、家庭円満のおかげが受けられるのです。他人だけは心で助けちゃるばってん、内の嫁子だけは心でこなしよるちいうようなことじゃでけんって、それじゃなーにもなりよらん、( ? )、内の嫁子さんばかりは妙な人じゃあるちいうてから、ばばさんち、あんた自身が妙な人ち、( ? )。ちょいとあの人は妙な人じゃあるがのぅち、ち言う時に、まず自分が( ? )事を知れ、自分の妙な心でそれば見よるとじゃから、ね、だから、本当に善人と言われる人たちはですね、その人達の周囲には一つも妙な人がおんなさらん、あの人は良か人、この人も良か人に見えてくる、確かにそうなんですね。
しかも、その本当なことがわからせていただく、喜ばしさ、あるいわ、嬉しさ、ね、楽しさと言うようなものをです、その本当なことを、ね、分かったらそれを完全として行の上に現して行くというその心が元気な心だとこうやった訳でしょう、ね、その先に有り難いという、いうなら、許される、ね、その有り難いと言う心でいよいよ人を助けれることの出来れる信心、ね、人の幸せと、ね、のお役に立つ事を、お互い念願とさせていただかなければならん、最近それを頂きますね。
人の幸せ、世のお役に立ちたいと、その私は根本になるのものは今日(こんにち)の御理解だと思う。ね。まず、心で助けられる私にならせて貰う、そこには条件が無い、それを博愛という、ね、そういう愛の心をいよいよ自分を中心に、ね、家庭、そしてその周辺、段々それを広く祈り願っていくという信心、ね、そこに、神様の喜びが頂けれるから、ね、その喜びがまたこちらに返ってくるのも私共は有り難いと言うことだというふうに今日はもうしましたね。それは行ずるありがさと言うものが段々身に付いてくること、それがお徳を受けていく事だと言うふうに申しました。
信心とは本当な事を分かる事、ですから、その本当な事を分からせて頂く喜び、ね、そこに、お互い信心修行の焦点をおかなければ名らんと思いますね。
どうぞ。
末永静行
2005年6月5日